苦難が来たら喜ぶというのが倫理の教えですが、そんなことできるかい!というのが一般的な本音ではないでしょうか。
仕事で思わぬトラブルが起きた時。
信頼していた人から厳しい言葉を受けた時。
予定していたことが思うように進まない時。
家庭で何気ない一言に傷ついた時。
会の運営で、こちらの思いが伝わらず、協力が得られない時。
そんな時、私たちの心に最初から「ありがたい」「嬉しい」「成長の機会だ」などという感情が湧いてくることは、そう多くありません。
むしろ最初に出てくるのは、怒り、不安、落胆、焦り、面倒くささ、悔しさ、恐れ、あるいは「なぜ自分ばかりが」という被害者意識ではないでしょうか。
たとえば、朝から社員に注意したら、思った以上に反発された。こちらは会社のためを思って言ったつもりなのに、「そんな言い方をしなくても」と返される。その瞬間、腹が立つ。「何を言っているんだ」「こっちの苦労も知らないで」と思う。
また、業績が思うように伸びない時には、不安が出てきます。資金繰り、社員の生活、家族の将来を考えると、夜中に目が覚めることもある。そんな時に「苦難は幸福の門です」と言われても、頭では分かっていても、心はなかなかついていきません。
倫理法人会の活動でも同じです。役を受けたものの、思うように人が集まらない。声をかけても返事がない。協力してほしい人に温度差を感じる。すると、「なんで自分だけがここまでやらなければならないのか」という気持ちが出てくることもあります。
しかし、こうしたマイナス感情が湧くこと自体は、決して悪ではないと思います。人間である以上、心は出来事に反応します。怒りが出る。不安が出る。悔しさが出る。逃げたい気持ちが出る。それは自然なことです。
大切なのは、その感情をなかったことにしないことです。
「こんな感情を持ってはいけない」
「倫理を学んでいるのだから、怒ってはいけない」
「会長なのだから、不安な顔をしてはいけない」
そうやって無理に押し込めると、感情は消えるどころか、心の奥に残ってしまいます。そして、別の場面で言葉がきつくなったり、態度に出たり、人を責めたりしてしまうことがあります。
だからまず必要なのは、湧いてきた感情に気づくことです。
「ああ、今、自分は腹が立っている」
「今、自分は不安なんだ」
「本当は怖いんだ」
「認めてもらえなくて悔しいんだ」
「思い通りにしたい自分がいるんだ」
そうやって、自分の心の反応を一度受け止める。ここが第一歩なのだと思います。
そして、その感情の奥を見つめてみると、自分の心の癖が見えてくることがあります。
怒りの奥には、「自分の考えが正しい」という思い込みがあるかもしれません。
不安の奥には、「先のことを自分一人で何とかしなければ」という力みがあるかもしれません。
悔しさの奥には、「もっと認めてほしい」という承認欲求があるかもしれません。
面倒くささの奥には、「できれば変わりたくない」という怠け心があるかもしれません。
被害者意識の奥には、「自分だけが大変だ」という視野の狭さがあるかもしれません。
ここに気づくことが、苦難福門の入口ではないでしょうか。
講話の中で、「苦難があるから問題点が発見され、その問題を解決する能力が身につく」という話がありました。
これは仕事上の問題だけでなく、自分の心にも当てはまると思います。苦難が来るから、自分の中にある未熟さ、こだわり、慢心、恐れ、甘えが見えてくる。普段は隠れている心の癖が、苦難によって表に出てくるのです。
そう考えると、苦難とは自分を責めるために来るものではありません。自分を見直すために来るものです。
苦難そのものを、すぐに喜ぶことは難しい。けれども、苦難によって自分の心のあり方に気づけたなら、その時初めて「ああ、これは自分を改める機会だったのか」と受け止めることができます。
社員への怒りが出たなら、言い方を改める。
不安が出たなら、一人で抱え込まず、相談し、数字を見直す。
会の運営で不満が出たなら、相手を責める前に、自分の声かけや関わり方を見直す。
家庭で傷ついたなら、黙って不機嫌になるのではなく、感謝の言葉が足りていたかを振り返る。
このように、感情を入口にして、言葉を改め、態度を改め、行動を改めていく。そこに倫理の実践があるのだと思います。
苦難福門とは、マイナス感情を持たない立派な人間になる教えではありません。苦難によって湧き上がる感情を通して、自分の心の癖に気づき、生活を改める教えなのだと思います。
苦難を喜ぶとは、最初から笑顔で受け入れることではない。怒りや不安や悔しさを感じた自分を正直に見つめ、その奥にある課題に気づき、一つ行動を改めること。その積み重ねの先に、振り返って「あの苦難があったから今の自分がある」と思える日が来る。
その時、苦難は本当に、幸福へ入る門だったと分かるのではないでしょうか。

